FLOWERS FOR...



もう何日彷徨ったろう。食糧ももう底をついたし地図さえない。
五月の光は鮮やかに葉っぱをすり抜けて、僕の指先に降り注ぐ。深呼吸なんてもうし飽きたよ。
だって僕ももうクタクタだというのに、そういう時に限って空がイヤというほど眩しい。

「あ、人…?」

そいつは黒っぽい姿で、重そうなマスク、訳の分からないタンクまで背負っていた。とても人が登れそうにない斜面を、ほとんど動きもしないですんなりと上 がっている。地に足は着いてない。低空飛行。

こんな山深くで人と会ってしまうなんて、もう僕はおしまいかもしれない。何が起こるのかなんて、わかりゃしないのだから。


僕は地べたに這いつくばり、頬を擦り付けて息を殺した。木々がざわめく。指先には湿ったひんやりとした土の感触。僕の鼻先に間違って上ってこようとする蟻 のくすぐったさ。ああ、どうか誰も僕に気付かないで。そのまま通り過ぎてくれ。

マスクの男は大きな木をひとつ挟んで、数メートル上の岩に着地してマスクを外した。汗ひとつかいてないのだろう。解放された髪が風のままになびいて光を反 射する。僕よりもっとずっと明るい、ほとんど白に近い髪の毛。なんて赤い眼。彼は二つ三つ瞬きをすると、足元の花に眼をとめた。
小ぶりな百合のような花が揺れている。ただ一輪。あんな花は見たことない。と、彼がその花の茎に指をかけた。僕の鼓動がやたらと高まっているのは、まだ見 ぬ花のせいなのか、それとも彼への恐怖のせいなのか。かすかな抵抗など何の意味もなく、白い花は彼の顔にあてがわれた。しばらく何かを楽しんでいるように 見える。まるで会話のような、知らない何か。くるくる と指先でもてあそんだかと思うと、じっと見つめている。

次の瞬間、彼は大きく口を開けて眼をつぶった。

「えっ、食べちゃう?」

僕は頭の中で思っただけだった。声なんか出していない、目だってつぶっていた。汗だって、そんなにかいてないはず。なのに、彼は突然立ち上がって僕のほう を振り向いた。


見つかってはいない…よな?

僕はまだ目を開けることができない。
奇妙な音。
葉っぱだけが揺れる。
風なんかないのだけど、確かな気配。

…やばい!

彼は目の前にいた。静かに笑ってさえいた。
指先を伸ばして僕の背後を指す。

「あ、蝶々」

透き通る羽根を拡げた蝶。
顔をくしゃくしゃにして笑う彼がいた。
彼は僕を知っていたのだろうか。僕は彼のことなんか知らないのに。

ひとしきり笑うと、僕の口先に花を差し出してきた。
「花は…食べられないよっ」

空腹のせいか、強めの口調になってしまう。彼はややうなだれてしまったようで、しばらくうろうろしていたが、すっかり機嫌は直ったのかムシャムシャと花を 食べていた。


それにしても一体どこから…?


「ねぇ、僕もうずっと何も食べていないんだ。君、飛べるんだろう?」
彼の背中に僕は懇願する。言葉は通じているはずだし…

「ごめんね、僕は花は食べられないんだったらぁぁ」

僕はもうほとんど泣いていた。せめて言葉を交わせればいいけど、山の中でこんな人に遭ってしまって、これじゃ下山確立はほぼ皆無じゃないか。

「もうやだぁぁ」

ふいに重力が失われた。僕は彼の小脇に抱えられて、急勾配の入り組んだ谷を降りようとしている。生きた心地はしないけど、あのままじゃ確実に遭難だった し、もう天に運を任せよう。





だけど僕は食べ物じゃないよ。

君はお花を一杯食べたよね?





鼓動。鼓動。鼓動。
遠い光、姿は見えるけどもう失われた。
まるで他人。


だけどどうしたって離れられやしない。


96、97、98…




なんだか、イヤに落ち着くんだ。



(06/06/05)

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